あと元・国府台高校生で3年1組花鳥風月でナイゲンに出席してた、というあのときの自分自身と。
どの階層の自分がどの視点でどの感想を持っているのか、解らないまま書いている。でも解らないからこそ書くべきなんだ。
どの階層のどの視点の俺も、そこだけは一致している。
『ナイゲン(2016年版)』、シアターミラクルにて。
言うまでもなく我々アガリスクエンターテイメントの最高傑作のひとつ(ひとつ、であると敢えて言おう)で、有難いことに各所で上演されている。
贔屓目に見られているかはもちろん解らないし自分で言うのももちろんナンだが、俺は現代コメディシーンにおけるマスターピースに成りかけている、と思っている。
だってこの夏だけで3公演だぜ?他にあるかそんなコメディ?
そんな手前味噌はどうでも良いのだ。
『ナイゲン』の話だ。
久しぶりのシアターミラクルでの観劇、というのもあるが、アガリスクがミラクルで『ナイゲン』を演ったのが3年前。ほぼ変わらない舞台セットも併せて、劇場に入った瞬間になにか強烈な既視感と懐かしさと少しの喪失感と、、、とにかく出来上がってしまっていた。ああ、冷静に楽しむのは無理だな、と覚悟した。事実その通りだった。
当たり前だが俳優も演出も違う、だから芝居として全く違う。俳優陣の年代もかなり若い。そもそも「ナイゲン」という行事も「国府台高校」も知らない人間が創る『ナイゲン』。それは、当然の如く別の作品だ。それでいい。そしてそれがいい。
ただ。
俺はどうしても「『ナイゲン』はコメディである」というところに拘ってしまう。アガリスクはコメディ劇団で俺はコメディ俳優だから、コメディとして強いかどうかで先ず観てしまう。そういう意味では、気になる点がないとは言えない。余計な諫言であることは重々承知で書くから余計とか言わせない。
抽象的な表現になるが「踏み込み」と「信頼」が足りないと思う。コメディとは「笑いを獲ろうとする姿勢」によってコメディたらしめられる。笑いが起こることによってコメディになるのでは遅い。それではコメディに「させられて」いる。アグレッシヴに、例え観客に響かなくとも仕掛けていくこと。しかしそれは決して個人で突破するものではなく、座組のグルーヴによって作り上げるものだ。ネタの構造を信じて、ゴールを設定しそれを共有し、そこ目指してパスを繋いでいく。個人の熱量も技術も、ネタを成立させるために最適化させる。笑える空気を産み出す半歩の「踏み込み」と、足並を揃えるためのネタへの「信頼」。コメディのドライヴ感を作り出すのは、その2つだと思う。
という感想を持ちつつも一方で、不思議な感覚があった。
「『ナイゲン』はコメディなのか?」と。
実は今までも何度か考えたテーマだ。
まず『ナイゲン』は脚本上、徹頭徹尾笑えるように書かれていない。それだけでなく、最終的な着地点も笑いではないし、そもそもの骨組が、コメディのそれではない。テキストレベルで言えば、コメディとして演じなくても演出しなくても成立するのだ。つまり、コメディとしてはデザイン的に歪であり、構造上かなり弱い。
しかし歪で弱いからウケないか、というとそうでもなくて、その分(ある種の手当・ゴマカシとして)ネタの強度は強目に作ってある。それが余計に一本の物語として見るとアンビバレンツなものになってしまっている。だから正直コメディの脚本として巧いかどうかと問われると、色々アラが出てくる。
そういう意味で、『ナイゲン』をコメディとして捉えない、と言うと言い過ぎだがその視点を一回外すことは、アリだと思うのだ。なぜなら、俺たちには絶対にできないから。ウケるかウケないか以外のモノサシを持たないから。
今回の『ナイゲン』では「笑いを獲る」セリフ回しはそこまで重視されていなかったように思える。コメディ野郎としてはそれを「もったいない」と感じるものの、それでも客席には響いていたりして、それはとても不思議な感覚だった。なんだろう、カヴァーというより、変奏曲みたいな。俺が思い描くのと全く別のリズム感の、解釈の『ナイゲン』。まるでパラレルワールド。
そこに若干の淋しさを感じつつ、だからこそ思う。そうじゃなきゃ。アガリスクエンターテイメントから、飛び立った『ナイゲン』は、それぞれ勝手に進化を遂げる。変化ではなく、それは間違いなく進化だ。多様な解釈の差分、そうやってこそ多様な他者に受容される。オリジネーターではリーチし得なかった誰かに届く。
物語の適応放散。個人の儀式でしかなかった脚本が、世界に拡がる。
それは涙が出るほど素敵なことだ。なぜなら『ナイゲン』はそういう物語だから。形は変わっても遺る魂、その「継承」と「発展」への賛歌なのだ。いや、魂すら変容しても良いのかも知れない。アガリスクにとっての「コメディ」という核の部分だって、組換え可能なパーツの一部に過ぎないのだろう。
それでも、「めんどくせえ学校」が紡がれていく。誰かの手によって。『ナイゲン』はきっとそういう作品なのだ。
と思いつつもやはり思う。
死ぬ前にもう一回アイスクリースマスと花鳥風月やりてえなあ。
やらないけど。この気持もいつか変容するのだろうか。